私は『人を賢くする道具』の環読プロジェクトに参加している。今月は第5章を読んだ。メモは作ったので、文章でもまとめる。
何が書かれていたか
本章で筆者は人間の「心」に注目する。ここでいう心とは、簡単に言えば、他者の視点に立つ能力のことを意味している。人間が美術、ゲームやスポーツ、言語、音楽、儀式祭礼、風刺、教育、物語を理解したり、楽しんだり、活用したりすることができるのは心のパワーによって他者の視点に立つことができるからである。
本章では人間の認知の進化に注目し、人間特有の「表現」についての説明を行っている。人間は表現において「意図」を伝えることができ、それができるかどうかが他の生物(あるいは機械)と明確に違う点である。たとえば、類人猿は相手の行動を真似することができるが、演技をすることはできない。これらの行為を表現による意図の視点から捉えると、真似は意図を含まないが、演技は意図を伝えることができる行為になる。つまり、意図を含んだ行為は動物にはできず、人間だけが表現の中に意図を含めることができる。
人間は意図を伝えるために「物語」を活用することもある。物語を使えば、人間は個人に対してだけでなく、集団に対して意図を共有することができる。さらに、人間はアーティファクト(外部の装置)を作り出すことによって、単なる生物としての枠を超え、時間や空間を超えて意図を伝えることができる。
物語以外にも人間は論理によって意図を伝えることができる。科学者は論理を好み、論理に従うべきだと考えがちだが、人間は体験モードを好むため、重大な意思決定においても論理ではなく、物語を用いてしまうことが多い。その物語は、記憶内で利用可能な「最近」の「個別性が強く感情を喚起させる」出来事であることも多いため、エラーの原因になったり、エラーの発見を難しくすることがある。
とはいえ、筆者は物語と論理のどちらが優れているかという話をしようとしているわけではない。問題視しているのはエラーについてである。人間と類人猿が違うことと同様に、人間と機械が違うことを無視し、人間に合わない機械中心のタスクを強要するからエラーが生じていることを問題視する。人間の心の特徴を踏まえた上で、人間の認知の複雑さを理解し、エラーを最小に、エラーの影響を最小に、エラーに気づく状況を用意するようにテクノロジーをデザインすべきであることを主張するのである。